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『風の旅人』 40号

FIND the ROOT 彼岸と此岸

二つの時間/境の旅

他者に対して、主観的観察者となること。
自分が決めた基準で、他者を計ること。
自分の都合で、世界を整理すること。
自分の要求に適うピースを見つけようとして、
焦り、苛立ち、世界を責めること。
人は、そのように自分の視点に偏る時もある。

他者の客観的な目を、意識しすぎること。
他者が決めた基準で、自分を計ること。
他者の都合で整理された世界に合わせること。
他者の要求に適うピースになろうとして、
焦り、苛立ち、自分を責めること
人は、そのように他者の視点に偏る時もある。

自己も他者も同条件の世界に参加し、
分別なく、打算なく、活動すること。
自己も他者も共有する世界の理を感じること。
多彩なピースが絶妙に接合した世界を知り、
世界の一部である自己と他者を受容すること。
人は、そのように自他の境が消える時もある



編集長 佐伯剛



©ゲオルギィ・ピンカソフ

※下に紹介している写真は誌面全体のごく一部です。

北の果ての海

© ゲオルギィ・ピンカソフ

© ゲオルギィ・ピンカソフ

© ゲオルギィ・ピンカソフ

ニライ

© 染谷學

© 染谷學

© 染谷學

East Meets West

© 細江英公

© 細江英公

© 細江英公

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※掲載写真の印刷物への使用は法律で禁止されています。

vol.40 2010年6月発行

定価 ¥1,200(税込)
全169ページ 30×23cm

【 表紙・裏表紙 】

表紙・裏表紙写真/ゲオルギィ・ピンカソフ

【 写真 】

【 文章 】

     




彼岸と此岸3
  二つの時間/境の旅


 春風の花を散らすと見る夢は
 さめても胸のさわぐなりけり
               西行


 現代社会における人間活動の多くは、1+1=2の公式のように定型化されたパターンに従って営まれている。
 朝8時にセットした目覚まし時計が鳴り響くと反射的に起きて、歯を磨き、背広に着替えて、いつもの電車に乗って会社に向かう。歩いている途中で信号が赤になったら止まる。一つひとつの行動において、なぜそれをするのか、あまり考えない。社会はそういう風にできている。
 社会が文明化すればするほど、そうした公式が身の周りに増える。コンピューターを所有すれば、そこにもたくさんの公式があり、それを使って何かをしようと思えば、その公式に従わなければならなくなる。
 便利な文明生活というのは、裏を返せば、多くの人によって共有されている公式に従属させられるという状況が、生活の隅々まで張り巡らされていることでもある。科学的普遍性というものは、そうした共通認識とルール化が鉄則になっており、科学技術をもとにした文明社会が同じ性質を持つのも当然のことだ。
 私たちの文明生活において正常とされる社会は、公式によって管理されている。一人ひとりの思考や行動特性は、公式によって管理された環境によって条件づけられているが、公式に依存した一人ひとりの観念や行動の集積が、ほかでもないその環境を強化している。
 しかし、実際に生きていると、公式通りにならないことが頻発する。電車の遅れなどは小さな誤差にすぎないが、それが人々のストレスになるだけではなく、公式に基づいて秩序づけられた様々な活動に、バタフライ効果のように甚大なダメージを与えることさえある。
 また、正しいとされる人生の公式に自分をあてはめるため、子供の頃から厳しい進学競争や就職試験を乗り越えて入社した会社が、あっけなく倒産してしまうこともある。そういう事象を数多く目のあたりにして、現代社会を条件づける公式で将来を計算できないことがわかってくると、人々の不安は高まる。
 1+1=2という公式のなかに自分をあてはめようとする人生は、その時点で、自分の将来が、その式の中にしかないことと裏表であり、それ以外の可能性を意識的に遮断してしまうことになる。たった一度の人生をそのように消費したくない人もいるが、他の在り方への備えがないために、変化や異質に対して、不安と疑心暗鬼を持つ人もいる。その感覚が増大すると、社会を条件づける公式から外れるものや、その式を不安定にする可能性のあるものを忌避し、神経症的に攻撃したり、隔離したり、改良しようとする動きも一部に出てくる。
 しかし、自分の不安定さの原因は、自分が依存してきた公式が通用しない新たな現実があらわになっているのに、その公式に執着せざるを得ない自分自身の不自由さにあるのだ。
 私たちが判断の拠り所とする公式は、すべて便宜上のものである。いざとなれば、黒板に書かれたその公式を消し去って新たな公式を書ける。しかし、新たに導き出された公式もまた、便宜上のものである。
 すなわち、私たちの生は、次々と現れては消えて、また新しく立ち現れる便宜上の公式のうつろいのなかに存在しているということだけが、変わらない真実である。
 便宜上の公式の中にいることは夢の中にいるようなものであり、夢から覚めないかぎり、便宜上の公式の中にいることは、わからない。
とはいえ、それが夢であるから全ての人間の営みが空しいということでもない。人間の営みが空しいものだと結論づけることもまた一つの公式への依存であり、そうした態度は夢の中に等しく、夢から覚めた時に初めてそのことがわかる、ということを私たちは何度でも繰り返す。
 桜は散る。満開の桜が散っていく時、私たちは、一つの夢が崩れていく瞬間に立ち会いながら、散る桜という新たな夢を見ている。同時に、その夢がずっと続かないことも覚っている。
 “うつろい”を知るのは、目覚めている人だけだ。そして、“うつろい”は、目覚めている人の胸を騒がせ、生きている時全体を愛していることを自覚させることもある。
 現代社会に生きる私たちの観念や行動は、公式の立場をとるメディアや教育を通じて執拗に条件づけられており、それ以外の可能性を遮断する傾向にあるため、夢のなかにいながら、夢であることに気づきにくくなっている。しかし、そうであったとしても、何らかの出会いによって、自分が拠り所にしていた公式が夢だったと覚る可能性が誰にでもある。そうなった時、私たちは、落胆することもあれば、夢のなかで繰り返してきた様々な時間を愛しく感じながら、人生のリアリティとして味わうことさえ可能なのだ。
 それが人生だと、うつろな意識で投げやりにぼやくのではなく、覚醒した意識で胸をさわがせながら、潔く受け入れること。今日の社会において、そうした精神的風土は、なかなか見当たらないようで、まだどこかに残されているような気がする。