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『風の旅人』 36号

FIND the ROOT 永遠の現在

時と転

砂漠の中を歩きながら、砂嵐に巻き込まれると、
視界がきかず、混沌とした世界に感じられるが、
全体を眺め渡せる場所に出ると、
局面ごとの様相や、動きの方向性が見えてくる。

時代や社会の急激な動きの中に巻き込まれると、
視界の中に飛び込んでくる物事に意識がとらわれ、
混沌とした世界に感じられるが、
そこから距離を置くと、様々な関係性が見えてくる。

世界が混沌に見えたり、秩序的に見えたりするのは、
どこを、どう切り取るかという意識次第である。
意識が変わると、視点が変わる。
視点が変わると、世界が変わる。

望月通陽

砂漠〜都市

© Balthasar Burkhard

© Balthasar Burkhard

© Balthasar Burkhard

© Balthasar Burkhard

© Balthasar Burkhard

© Balthasar Burkhard

遠い場所の記憶 Remembrance of a Remote Past

©川田喜久治

©川田喜久治

©川田喜久治

©川田喜久治

©川田喜久治

©川田喜久治

Japan…a chapter of image, 1961

© Kevin Eugene Smith

© Kevin Eugene Smith

© Kevin Eugene Smith

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※掲載写真の印刷物への使用は法律で禁止されています。

vol.36 2009年2月発行

定価 ¥1,200(税込)
全150ページ 30×23cm

 物事がどう見えるかは人間の意識しだいであり、意識が変われば世界の見え方が変わるという当たり前のことを、私たちは、しばしば忘れてしまいます。
 「風の旅人」36号では、戦後日本社会を俯瞰しながら、この60年の間に何が変わり、何が変わっていないのかを浮かびあがらせたいと思いました。
 過去を省みながら、未来の糸口を探る。人間は、そうした能力を備えており、今日まで生きてきました。現代の私たちは、膨大な情報量に翻弄されながら、“今”に目を向けることに忙しい状況が続いてきましたが、短期的な視点ではなく、長期的な視点で生きる意識を少しずつ育んでいかなければ、人間の営みは、益々行き詰まっていく気が致します。
 政治経済の情勢も含めて、そうした転換期に差し掛かっています。意識を変えることは簡単ではないですが、難しいからといってその場をごまかしていても、状況が良くなることはあり得ないでしょう。
 

雑誌『風の旅人』編集長 佐伯 剛

【 表紙・裏表紙 】

望月通陽

【 写真 】

【 文章 】

     

「時と転」

雑誌『風の旅人』編集長 佐伯 剛


 ロールシャハテストでは、その時の心理状態や、様々な要因によって、二人の人間が向き合っているように見えたり、壺に見えたりします。どちらにも見える可能性があるのですが、黒の部分を強く見る意識が強化されると、そのような見え方しかできなくなり、他の見え方が、この世に存在しないものになってしまいます。
 現代の日本社会は、メディアなどを通じて、物の見方を一方に揃えさせていく圧力がとても強いです。ロールシャハテストに喩えると、最初のうち何となく「顔」に見えていたイメージ画において、この部分が鼻だとか耳だとか、大きな声で主張したり理由説明を行う人の声を聞いていると、次第に顔にしか見えなくなっていきます。説明する人が、世間で立派だと評価されている場合は、なおさらのことです。立派な人は、自分の評価を確固たるものにするため、顔だという証拠を周到に集め、自分を支持する人を増やそうともします。
 教育もまた、イメージ画を「顔」とみなす権威のお墨付きを前提に、なぜそれが顔なのかという分析結果を、できるだけたくさん身につけることが重視されます。
 なかには、イメージ画が「壺」に見えて、大勢の人が「顔」だと言っていることに疑問を感じる人もいます。疑問を感じながら自分の意識世界のなかに閉じこもっていくと、今度は「壺」にしか見えなくなってきます。そうした状況のなか、自分の目え方を否定して周りに合わせて生きていける人もいますが、自分に正直な人は、様々な軋轢を抱え込むことになるでしょう。
 イメージ画が「顔」に見えることもあれば、「壺」に見えることもある。いろいろと可能性があるなかで、その都度、最善の判断をしなければ生きていけないとしたら、私たちは常に緊張状態でいなければなりません。あらかじめ「顔」だと決定しておくと、それに対応する準備ができます。そして、「顔」である理由を大勢が共有し、そのことに素直に適応しさえすれば生きていけるようにする。それが平和時の人間社会であり、決まり事への適応を上手に行える人ほど社会的に優位になります。その状態が長く続くと、人間は、イメージ画を「顔」だと定めたのは、その時の事情にすぎなかったことを忘れてしまいます。
 現代社会では、物が豊富で、便利で、楽なことが、一般的に豊かさの基準となり、その線引きで多くの物事が決められていき、社会全体として益々その傾向を強めていきます。しかし、豊かさの基準をはじめ、世界の意味は、完全に決定できるものではなく、常に他の可能性に開かれています。たとえば、物を持たず、不便ではあるけれど自分の足で歩き、様々な困難と出会いながら旅したことが、このうえなく豊かに感じられることもあるのです。
 人間は、一つの体験によって、それまでの認識ががらりと変わることもあります。ある日突然、自分が拠り所にしていた「意味」が無意味になる時、それまでの基準に添って蓄えてきた物を失うことを恐れ、従来の「意味」に執着し、力づくでそれを正当化する人もいるでしょうが、新しい「意味」によって、行き詰まりから脱出できる人もいるでしょう。
 「転」というのは、つきつめて言えば、意味が変化することです。「顔」にしか見えなかったものが、「壺」に見え出すことです。世界そのものの本質は何も変わらず、人間は世界を見たいように見て、解釈したいように解釈し、意味づけています。
 しかしながら、何かをきっかけにして、自分が拠り所にしていた意味が揺らぎ、視点が変わり、それまでとまったく違う世界が見えてくることがあります。そうしたことは、人生のなかでも何度も起こりますし、人間の歴史のなかでも、何度も繰り返されていることなのでしょう。